最古のゴルフコースを徹底的に調べてみたシリーズは今まで世界最古(スコットランド)・アイルランド最古のコースを取り上げてきた。
世界最古のゴルフコース
アイルランド最古のゴルフコース
そして、次にアメリカ最古のゴルフコースの記事をまとめることにした。
まとめている途中にゴルフの起源についてまずは調査したほうがよい事実がでてきたのでゴルフの起源についても調査した。
更に、アメリカ最古のゴルフコースの記事をまとめている中でカナダの最古のゴルフコースの記事も紹介しておいたほうがよくなったので、この記事では北米大陸のアメリカ・カナダそれぞれの最古のゴルフコースについて紹介したいと思う。
(※記事中の各ホームページのスクリーンショットをクリックするとそれぞれのホームページにジャンプする)
記事が長くなるので前編・中編・後編の3つに分けることにした。
前編では最近まで信じられていた最古のゴルフクラブの情報。
中編では南北戦争以降に作られたクラブとコースについて。
後編では南北戦争前に作られたクラブとコースについて。
についてそれぞれ記事にする。
アメリカ最古のゴルフクラブはニューヨークのセントアンドリュースGCではなかった
アメリカ最古のゴルフクラブに関して様々な議論がなされてきている。
日本で出版されてきたいくつかの書籍ではニューヨークのセントアンドリュースゴルフクラブがアメリカ最古と紹介されてきたが実はそうではない事が明らかになってきている。
私もこのブログを立ち上げた2008年の時はセントアンドリュースGCがアメリカ最古だと思っていた。
まずはそのセントアンドリュースGCについて紹介する。
アメリカにセントアンドリュース?
スコットランドのダンファームリン生まれで19世紀後半にアメリカに移民したRobert Lockhart / ロバート・ロックハートはリネン商人でスコットランドとニューヨークを行き来していた。
ロバートは故郷のスコットランドで、Dunfermline Golf Club / ダンファームリンゴルフクラブ(1887年創設)の初期メンバーとしてゴルフを愛し、度々、スコットランドのセントアンドリュースにも訪れて、ゴルフをしていた。
その時にセントアンドリュースのトム・モリスの店でゴルフクラブとゴルフボールを購入し、1887年にアメリカに持ち帰った。
そして、ロバートは、同じダンファームリン生まれの友人の John Reid / ジョン・リードたちと数人で1888年2月22日にヨンカーズのリードの自宅前の雪解けた牧場で仮の3ホールでプレーした。そして、4月には30エーカーの牧草地に移動し、6ホールのコースを設計した。

その後、1888年11月14日にThe Saint Andrew’s Golf Club / ザ・セントアンドリュースゴルフクラブを設立した。(本家スコットランドのSt Andrews / セントアンドリュースとの違いはアポストロフィがアメリカのSaint Andrew’s / セントアンドリュースにはついているという違いがある。)
ロバートはチェアマンを打診されたが出張で忙しいので辞退して、ジョンが初代チェアマンになり、ジョンがアメリカゴルフの父と呼ばれている。
1892年には近くの果樹園にコースを移し、1番ホールのティーの隣にリンゴの木があり、その木の下に集まる彼らのことを「アップルツリーギャング」というニックネームで呼ばれるようになった。
その後、会員数が増えたので、2度移転をした。
最終的に1897年、クラブはヘイスティングス・オン・ハドソンに18ホールのコースを造成して、現在もその地に残っている。当時、鉄鋼王のアンドリュー・カーネギーなど名だたる実業家がメンバーに加入していた。(カーネギーもダンファームリン生まれ)
後に紹介するが、北アメリカ大陸には、このセントアンドリュースGCより、1世紀も前に南部のサウスカロライナやジョージアに古いゴルフクラブが存在していたのだ。
それでも、セントアンドリュースGCがアメリカ最古のゴルフクラブと言われ続けてるのは、南北戦争で南部が負けたことにより、アメリカのゴルフの歴史から南部のゴルフはなかった事にされたのかなと最初は、思ったのだが調べていくうちに、実はそうではなかったのもわかった。
最近ではセントアンドリュースGC自身のホームページでも「the oldest continuously operating golf club in the United States」であったり、「the oldest continuously existing golf club in the United States」と「継続して運営している」や、「継続して存在する」と紹介しているので本当の最古のコースは別にありますよ。という事は暗に伝えてはいる。
もちろん、南北戦争で資料などが紛失していることも理由の1つではあるが、一番は、USGAという存在の影響が大きいと思う。その件は次のセクションで話す。
USGA(全米ゴルフ協会)とC・B・マクドナルド
USGAはUnited States Golf Associationの略で、日本では全米ゴルフ協会と呼ばれている。1894年12月に設立された。
設立時はニューポートゴルフクラブ、セントアンドリュースゴルフクラブ、シカゴゴルフクラブ 、シネコックヒルズゴルフクラブ、ザ・カントリークラブの 5 つで立ち上げた。
USGAの立ち上げの話の前に、USGAの立ち上げに深くかかわっていた人物で、当ブログでも何度も登場しているチャールズ・ブレア・マクドナルドの話からしたいと思う。
自己中心的で我儘だったC・B・マクドナルド
C・B・マクドナルドは私が世界で約900コースほどラウンドしてきた中で2番目にお気に入りのコースのナショナルゴルフリンクスオブアメリカの設計を担当し、私が大好きなゴルフコース設計家なのだが、調べてみるとかなり我儘な人物であることがわかった。
マクドナルドは、1855年にスコットランド人の父とカナダ人の母の元にカナダのオンタリオ州で生まれ、アメリカに帰化してシカゴで育った。
1872年、16歳でスコットランドのセントアンドリュース大学に留学し、オールド・トム・モリスの店でゴルフクラブを購入し、オールド・トムからゴルフやコース管理を学び、オールドコースでゴルフの腕を磨いた。
そして2年後の1874年にシカゴに戻ってきたが、アメリカにはゴルフコースがなかったためにイギリスに出張した時だけゴルフを楽しんでいた。
しかし、マクドナルドはどうしてもアメリカでもゴルフをしたいために1892年春にシカゴのレイクフォレストに7ホールのアプローチコースを作った。そして同年の夏にはベルモントの農地に9ホールのゴルフコースを造り、シカゴゴルフクラブを設立した。翌年には18ホールに拡張し、アメリカで初の18ホールを持つゴルフクラブになった。その後、シカゴゴルフクラブは1895年に移転し、このコースは現在はベルモントゴルフクラブとしてパブリック運営されている。
1895年に移転したシカゴゴルフクラブの新コースもマクドナルドが設計し、マクドナルドはスライサーだったために、コースの外周のホールはすべて時計回りにルーティングにして右にボールが曲がってもトラブルにならないような自分に有利な設計のコースにしてしまうという一面を持っている人物だった。のちに外側に隣接した土地が住宅地になり、左に打ち込んだ場合は打ち直しができるようにアウト・オブ・バウンズ(OB)が導入され、1899年に世界で初めて統一したゴルフルールとして発行されたRules of GolfにもOBが初めて記載されるきっかけにもなった。
幻となった初の全米アマチュアゴルフ選手権とUSGA設立
1894年9月10日11日にロードアイランド州のニューポートカントリークラブで全米アマチュアゴルファーNo.1を決定するアメリカで初めての選手権、The United States’ first National Amateur Championshipが開催された。
この大会にC・B・マクドナルドも参加していた。参加者は20名で初日のラウンドを終えて11人が勝てる見込みがなくなり棄権をした。初日の首位は89打のマクドナルドで、2位は4打差でニューポートCCのWilliam.G.Lawrence / ウィリアム・G・ローレンスだった。3位以降は100を切ったプレイヤーはいなかったので二日目はマクドナルドとローレンスの一騎打ちの状態だった。
そして2日目はローレンスが95打(合計188打)、マクドナルドが100打(合計189打)とローレンスが1打差で逆転し、優勝した。
しかし、マクドナルドはこの結果にクレームを出した。マクドナルドは8番ホールで石壁によるドロップでルール違反を犯し、2打罰を加えたスコアが100だったために、石壁がコースに存在するのはゴルフルールとしては認められないと意見しだした。
彼がゴルフを学んだスコットランドには古くからゴルフコース内に石壁が存在しているノースベリックがあることを彼は知っていたはずなのに、自分勝手なルールを言いだし、さらにストロークプレーではなくマッチプレーで競うべきだという主張も行った。
その結果、翌月の1894年10月11~13日に石壁のない別のコースのセントアンドリュースGCでもう一度、第2回の全米アマチュア選手権がマッチプレーで開催されることになったのだ。
28人が参加したこの大会でもマクドナルドは2位で優勝はセントアンドリュースGCのLaurence Stoddart / ローレンス・ストッダートという結果になった。
すると今度はマクドナルドは全国組織ではなく、1クラブが主催しているので全国選手権とは言えないと主張しだした。
この主張がきっかけの1つになり、1894年12月22日に、ニューポートゴルフクラブ、セントアンドリュースゴルフクラブ、シカゴゴルフクラブ 、シネコック ヒルズ ゴルフクラブ、ザ・カントリー クラブの代表者が集まり、Amateur Golf Association of the United States / 全米アマチュアゴルフ協会(のちにUSGAに改称)が設立された。
そして1895年にUSGAは第一回全米アマチュア選手権、全米オープン選手権をニューポートカントリークラブで開催することになった。
つまり、1894年に開催された2つの全米アマチュア選手権はなかったことになったのだ。
このような中、USGAが開催した1895年の第一回の全米アマには32人が参加し、C・B・マクドナルドが優勝したという歴史がある。
USGAにも良心があったのは、マクドナルドは会長にならず、副会長になり、会長はニューポートCCを立ち上げたTheodore Havemeyer / セオドア・ハブマイヤーが就任したことだろうか。
そんなUSGAを立ち上げた5つのクラブの中で一番、最初にゴルフを始めたセントアンドリュースGCがアメリカ最古のゴルフコースということで、そのまま広がっていったのだと思う。
南部のゴルフコースだけを黙殺していたというわけではなく、実際にセントアンドリュースGCより古い北部のコースもあるので、あくまでアメリカゴルフの歴史を作ってきた本流はUSGAを立ち上げたアメリカ東部の特権階級のエリートの我々だということで、地方を軽視していたからではないだろうか。
このようにC・B・マクドナルドは自己中心的な人物だったが、1890~1920年代のゴルフコース黄金期のアメリカのゴルフコースを設計するための指針を作り上げた人物としてアメリカゴルフコース設計の父と呼ばれているので、彼の評価に関しては賛否両論ある。
次の中編では、南北戦争後に設立したクラブでセントアンドリュースGCより古い北米のクラブを紹介する。
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