あなたは、ゴルフで一番大切なのはスコアだと思っていないだろうか。
私自身、日本のゴルフ文化のあり方について長年違和感を抱いてきた。
「スコア至上主義」は本当にゴルフの本質なのか?
日本では今なお、
- スコアを付けるのが当たり前
- ストロークプレーを最後までやるのが正義
といった空気が、想像以上に強く残っている。
しかし世界的に見ると、それはかなり特殊な状態だ。

まず最初に断っておくが、スコアを追求すること自体を否定するつもりはない。
スコアを縮める過程には努力があり、達成感があり、競技としての面白さがある。
それはゴルフの大きな魅力の一つである。
ただし、それが唯一の正解になってしまったとき、ゴルフの世界は急激に窮屈になる。
かつて日本は、ゴルフ文化の先進国だった
日本はもともとゴルフ文化の後進国ではない。
明治から昭和初期にかけて、日本はイギリスやアメリカに次ぐレベルでゴルフ文化が根付いていた国である。
クラブの設立背景、社交の場としての役割、競技とプライベートラウンドの明確な切り分け。
ゴルフはスコアだけを競うものではなく、文化として楽しまれていた。
ところが、バブル期のゴルフブームを境に状況は大きく変わった。
バブル期以降、日本のゴルフから抜け落ちたもの
バブル期、日本のゴルフ人口は急増し、ゴルフは一大産業へと成長した。
同時に、ゴルフは「文化」よりも「ビジネス」として扱われる比重が大きくなった。
その過程で、本来ゴルフに内包されていた要素──
土地の個性、クラブの歴史、設計思想、遊びとしての自由度──
そうした文化的な側面が、少しずつ削ぎ落とされていったように感じている。
代わりに前面に出てきたのが、
- 上手くなること
- 良いスコアを出すこと
という、誰にでも分かりやすく、数値化できる指標である。
これは偶然ではない。
日本のゴルフメディアの構造も大きく影響している。
「上達のための練習法」
「新しいギアでどれだけ飛ぶか」
これらは記事として分かりやすく、売れやすく、広告とも結びつきやすい。
結果として、ゴルフの“背景”や“文脈”よりも、成果や効率が優先され続けてきた。
世界でも同じ問題は起きているが、決定的な違いがある
誤解を避けるために言っておくと、スコア偏重の問題は日本だけのものではない。
アメリカやイギリスでも、「スコアに囚われすぎるとゴルフがつまらなくなる」という問題提起は数多く存在する。
ただし、決定的な違いがある。
それは、海外では同じメディアやコミュニティの中に、必ずブレーキ役の言説が存在するという点である。
- スコア以外の楽しみ方を語る記事
- コース設計や歴史を掘り下げる媒体
- クラブ文化や競技の文脈を継承する場
これらが並行して機能しているため、スコアが“唯一の正解”になり切らない。
世界では「自由なプレー」はごく普通である
世界的には、同伴者に迷惑をかけない限り、
- 途中でボールをピックアップする
- グリーン周りだけを楽しむ
- 今日はスコアを付けないと決める
といったプレーは、まったく珍しくない。
ストローク競技であればストロークプレーをきっちりやる。
一方で、プライベートラウンドではそれぞれが自由に楽しむ。
この切り分けがあるからこそ、
世界では見ず知らずの4人の組み合わせでも自由なプレーのラウンドが成立している。
これはルール軽視ではなく、
場面に応じてゴルフの顔を使い分けているだけだ。
なぜ日本ではスコアが「正解」になりやすいのか
日本では「正解を共有する」文化が強い。
ゴルフの現場でも、
- きちんと数える
- 最後までホールアウトする
- ルールに忠実である
といった振る舞いが「場を乱さない正解」として共有されやすい。
ゴルフは数値化しやすい競技であるため、この正解がスコアに集約されやすい。
その結果、
ゴルフをちゃんとやっている
=スコアをきちんと付けている
という短絡が生まれやすくなる。
一方、海外では正解は「迷惑をかけないこと」であり、スコアはあくまで個人の問題である、という空気が強い。
正解は一つではない
私は、スコアを追求するゴルフの楽しさも理解している。
真剣勝負のコンペが楽しいこともよく分かっている。
ただ同時に、
- 今日は景色を楽しみたい
- ショートゲームだけ集中したい
- 同伴者との時間を楽しみたい
そういうゴルフも、同じくらい価値があると思っている。
ゴルフは本来、自分が主人公になれるスポーツである。正解は一つではない。
クラブが文化の学校として機能していない問題
もう一つ大きいのが、「クラブ」の差である。
ここで言うクラブとは、競技が回り、ハンデが機能し、会員が自治を持ち、
歴史や作法が日常の中で自然に共有されている、そういう意味でのゴルフクラブ・カントリークラブである。
私は日本で600コース以上、海外300コース以上を回ってきたが、
この意味で日本国内で「クラブとして機能している」と感じるコースは、体感として多く見積もっても100前後である。
たとえば兵庫であれば、廣野、神戸、鳴尾など。
地方に行けば、1県に1コースあるかないか、という印象に近い。
クラブが文化の学校として機能していれば、
スコア以外の語彙──歴史、設計、振る舞い、競技、遊び方──が自然に共有される。
それが弱い環境では、誰にでも分かる指標、つまりスコアだけが正解になりやすい。
知識の薄いゴルファーが多いというより、
薄いゴルファーが育ってしまう構造になっている、という方が正確だろう。
なぜ日本だけが取り残されているのか
皮肉なことに、かつてゴルフ後進国だったアジアの国々は、
2000年以降、国際化を進め、ゴルフ文化や歴史を学びながら進化している。まだまだアメリカやイギリスに追いつくには時間がかかるが、日本より意識の高いゴルファーは増えつつある。ある部分では日本は追い抜かれていると思っている。
一方で日本だけが、上記の理由により、ゴルファーの人口の割合に対して、学べる機会が少なく、スコア至上主義という独特な価値観に縛られ、視野を狭めている状況である。
かつての日本のゴルフ文化へ
日本は、かつてゴルフ文化の先進国だった。
だからこそ、もう一度その水準に近づけるはずだと考えている。
スコアを楽しむ人もいれば、
スコアを気にしない人もいる。
どちらもゴルフであり、どちらも尊重されていい。
「こうあるべき」ではなく、「知ると面白い」そんな感覚でゴルフを立体的に楽しめる人が増えていけば、
日本のゴルフはもっと豊かになるはずだ。
余談として、いつも思うこと
こういう情報を啓蒙活動のように発信していて、いつも思うことがある。
それは、私がゴルフが下手だから説得力がない、ということだ(笑)。
本当は、プロやトップアマのどなたかが、
「スコア至上主義だけがゴルフじゃない」と発言してくれる日を、心から願っている。
それまでは、ゴルフとその歴史が好きな一人のゴルファーとして、こうした違和感を言葉にし続けていくしかない。
日本のゴルフ文化が、かつての豊かさを取り戻すことを願いながら。


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