琉球開闢にまつわる御嶽は7つあり、琉球開闢七御嶽として以下の7つの御嶽が創造神アマミキヨにより、最初に創られたと言われています。
- 安須森御嶽(あすむいうたき・国頭村辺土)
- クバの御嶽(今帰仁村の今帰仁城跡の近く)
- 斎場御嶽(せーふぁうたき・南城市知念)
- 薮薩御嶽(やぶさつうたき・南城市玉城)
- 雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき・南城市玉城の玉城城跡内)
- クボー御嶽(南城市知念の久高島)
- 首里真玉森御嶽(しゅいまだむいうたき・首里城内)
しかし、歴史に残っている書物では、琉球開闢にまつわる御嶽は9つであったり、7つであっても上記の4番めの薮薩御嶽ではなく弁之御嶽だったりしています。
1650年に書かれた琉球王国最初の正史「中山世鑑」では次の9つが琉球開闢にまつわる御嶽として書かれています。
- 安須森(安須森御嶽)
- カナヒヤブ(今帰仁城の上之嶽)
- 知念森(知念城の友利之嶽)
- 斉場御嶽
- 藪薩の浦原(藪薩御嶽)
- 玉城アマツヅ(雨つづ天つぎ御嶽)
- 久高コバウ森(クボー御嶽)
- 首里森(首里城内の首里森御嶽)
- 真玉森(首里城内の真玉森御嶽)
一方、1875年に書かれた「聞得大君御殿并御城御規式之御次第」では次の7つの御嶽が挙げられています。
- 国頭間切あおひ之御嶽(安須森御嶽)
- 今帰仁こはおの御嶽(今帰仁村のクバの御嶽)
- 首里森之御嶽(首里城の首里森御嶽)
- そやはの御嶽(斉場御嶽)
- 弁之御嶽(那覇市内の弁ヶ嶽)
- 久高こはおの御嶽(クボー御嶽)
- 玉城雨辻(雨つづ天つぎ御嶽)
この辺りのことは「南の島旅」というブログに詳しく調べられて書かれています。
簡単にまとめると、1650年頃は琉球開闢にまつわる御嶽は9つとされていましたが、1875年頃には2つ減り、七御嶽と呼ばれるようになりました。
この時に「カナヤヒブ」が「クバの御嶽」に、「藪薩御嶽」が「弁之御嶽」に代わり、知念城の「友利之嶽」と首里城の「真玉森御嶽」が外されました。
そして今の時代になり、再び「弁之御嶽」が「藪薩御嶽」に代わって七御嶽の1つだと言われています。また、1650年の時には「首里森御嶽」と「真玉森御嶽」は別々の扱いでしたが、現在は「首里真玉森御嶽」と1つとして扱われています。
これらをまとめると以下の11か所の御嶽が琉球開闢にまつわる御嶽になります。
過去の記事で全ての御嶽を訪れているので、それぞれをまとめておきます。
安須森御嶽(あすむいうたき)
国頭村辺戸の集落の近くの山頂にあります。
クバの御嶽
今帰仁城跡の近くの山頂にあります。
斎場御嶽(せーふぁうたき)
南城市の有名観光スポット
薮薩御嶽(やぶさつうたき)
雨つづ天つぎ御嶽(あまつづあまつぎうたき)
南城市の玉城城跡の中にあります。
クボー御嶽
久高島の西側にあります。(一般人は足り入り禁止です。)
首里森御嶽(すいむいうたき)
首里城の中にあり首里城正殿に入る奉神門の前に広がる下之御庭にあります。首里城の中の御嶽の中で最も格式が高いと言われています。この御嶽が先にあり、首里城は後から建てられました。2019年の首里城の火災の時も無事でした。
真玉森御嶽(まだまむいうたき)
首里城内にありますが、案内板などもなくわかりにくいです。京の内と呼ばれるエリアの端にひっそりとありました。(京の内展望台の近く)
現在は立ち入り禁止でこの洞窟の中に拝所があるようです。
こちらは、京の内の儀式を行う場所。聞得大君が儀式を行う場所だったようです。
カナヤヒブ(今帰仁城の上之嶽)
「中山世鑑」では最初に創られた9つの御嶽に入っていました。テンチジアマチジ御嶽とも呼ばれていて、今帰仁城にある御嶽の中で最も神聖な御嶽。
友利之嶽(知念城)
「中山世鑑」では最初に創られた9つの御嶽に入っていました。
この記事の8番目の知念グスクに紹介しています。
弁之御嶽
「聞得大君御殿并御城御規式之御次第」では七御嶽の1つに入っています。
那覇市の首里の高台にあり、弁ヶ嶽とも呼ばれています。
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