「Aサイン」とは沖縄が本土復帰する前、アメリカが統治している時に米軍が衛生基準に合格したレストランやキャバレーに与えられた営業許可証。
許可済みという「APPROVED」の頭文字の「A」をデザインしたもので、この「Aサイン」の表示がないお店には米軍関係者の立ち入りが禁止されていた。
その那覇市辻に於ける第一号店が「ジョージレストラン」
ジョージレストランは1954年にコザ(現在の沖縄市)で開業して、1956年に那覇市辻に移転。
良く勘違いされているのが、ジョージレストランが沖縄県内でのAサインの一号店と勘違いされているが、Aサインは1953年から始まった制度なので、ジョージレストランは那覇市辻の界隈でのAサイン一号店である。
実際、ジョージレストランのホームページでも「那覇市辻に於けるAサインレストラン一号店」と記載されている。
沖縄県内でAサイン一号店は奄美の喜界島出身のマエダケイスケさんがコザで営業を開始した「アーサーズレストラン」で、Aランチ発祥の「ニューヨークレストラン」が3番だそうだ。
ニューヨークレストランとその系譜のジャッキーステーキハウスのオーナーも喜界島出身者であることはこちらの記事でも取り上げたことがある。
そしてなんと現在も沖縄市に本店と国際通りに支店がある、「チャーリー多幸寿」の創業者も喜界島出身で「Aサイン」を取得していたのを今回知った。
戦後の沖縄でAサインを取得したレストランの多くは喜界島出身者が関係していたのは驚きだ。
これはAサインの制度が始まった1953年が奄美群島が本土復帰した年であることと関係していると考えられる。
奄美が本土復帰したことにより、沖縄県内に出稼ぎにきていた奄美の人々は外国人扱いになり、沖縄県で住むには今まで以上の苦労が発生したのでAサインという印籠のような存在に頼るしかなかったことも理由の1つではないかと思う。
実際、琉球銀行の初代総裁の池畑嶺里も奄美出身で、奄美の本土復帰と共に解任されたりしていて当時は沖縄に住む奄美人への風当たりは相当きつかったのが想像できる。
話をジョージレストランに戻す。店内の中央にAサインが飾られている。ジョージレストランの創業者は宮城さんという方なのでおそらく沖縄出身の方かな?そのあたりは不明。
ステーキサンドとタコス3ピースをオーダー。
タコスにはトーストも付いてきた。
パスタにトーストが付くのも沖縄流だが、これもその1つかもしれない。
チャーリー多幸寿もそうだったがこちらもハードシェル。
沖縄の老舗レストランが提供するタコスはアメリカのテクスメクスの流れでハードシェルが多いのだと思う。
どちらも老舗の安定した味。
特にステーキサンドは玉ねぎとドレッシングがさっぱりしていてステーキと一緒に食べると美味しかった。
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