2011年にカリフォルニア州を訪れて世界中の名コースを巡る旅の素晴らしさ、楽しさにハマってしまい、その後、アメリカ中西部、そしてアメリカ南部にもゴルフ旅にでかけた。
この一連の旅を第三話から連載で私が世界中の名コースを訪れ、ゴルフコースについて学んだことや感じた事をまとめ始めた。
第三話の最初のカリフォルニアでは、ペブルビーチ、オリンピッククラブ、リビエラなど世界級の名ゴルフコースをラウンドし、ゴルフ旅の沼にハマり、コースマニアの道を歩むきっかけになった。
第四話のアメリカ中西部の旅では、オリンピアフィールズ(1915年)、コグヒル(1964年)、ブラックウルフラン(1989年)、ウィスリングストレイツ(1998年)、エリンヒルズ(2010年)と各時代のアメリカの名コースをラウンドしたことでコース設計の流行の違いを感じることができ、もっとゴルフコースの黄金期(1910~30年代)のクラシックコースについて知りたくなった。
第五話のアメリカ南部の旅ではマスターズの観戦から南部のTPCソーグラス、シーアイランド、キアワアイランド、パインハーストという世界トップクラスのゴルフリゾートを経験してきた。オーガスタナショナルのアリスター・マッケンジー、シーアイランドのハリー・コルト、パインハースト#2のドナルド・ロスとゴルフコース黄金期の巨匠のコースを初めて触れることができ、ますますゴルフコース黄金期の設計家に興味を持つようになった旅でもあった。
そして今回の第六話は時間軸が交差するが、第三話でカリフォルニアを訪れて世界の名コースを巡る旅を始めた後、ゴルフ旅で二度カリフォルニアに訪れた時と、第五話の後にもカリフォルニアにゴルフ旅に行った時の事をまとめて紹介する。
ジョージ・C・トーマスJr.やアリスターマッケンジーに興味を持ち、彼らのコースをラウンドしたり、彼らの事を調べていると接点がないと思われていたゴルフコース設計家たちが実は繋がっていたという話である。
ジョージ・C・トーマスJr.に心惹かれる
第三話でも話したが、初めてのアメリカ本土のゴルフはオリンピッククラブに始まり、ペブルビーチGL、最後はリビエラCCとラウンドし、世界のTOP100コースの素晴らしさを肌で感じることができた。
どのコースも感銘を受けたが、その中でペブルビーチは突出していた。その次に記憶に残ったのがリビエラCCだった。設計したジョージ・クリフォード・トーマスJr.が他にどんなコースを設計したのか興味が湧き、調べてみた。
トーマスJr.はリビエラCC以外にロサンゼルスの名門コース、ロサンゼルスカントリークラブ・ノースコースやベルエアカントリークラブなどを設計し、この3つのコースが彼の代表作と言われている。
他にもホワイトマーシュバレーCC、ラ・カンブレCC、オーハイバレーCC、グリフィスパークGCハーディングコースなどを設計した。
そして私がゴルフ旅をするときに参考にしている愛読書の「THE 500 WORLD’S GREATEST GOLF HOLES」(世界中のゴルフコースの中から素晴らしい500ホールを紹介している本)にはリビエラ・LACC・ベルエアの3コース以外にオーハイバレーからも1ホール選出されていた。
そんなこともあり、2010年10月にリビエラCCをラウンドした後、時間を空けずに2011年1月にカリフォルニアを再訪し、オーハイバレーをラウンドする旅に出た。
ジョージ・C・トーマスJr.設計の隠れた名コース
ロサンゼルスから北西のオーハイにあるオーハイバレーカントリークラブ。
ロサンゼルス市内から1時間半ぐらいで到着。
オーハイバレーイン&スパの中にある1923年に開場したトーマスJr.設計のゴルフ場。
第二次世界大戦中は米軍の訓練場に用地転換されて閉鎖されたが、1947年にオーハイバレーイン&カントリークラブとして再オープン。
1988年にはジェイ・モリッシュが改造。ジェイ・モリッシュはロバート・トレント・ジョーンズの下でコース設計を学び、その後、ジョージ・ファジオ、ジャック・二クラスの下でコースの造成を手伝い、独立後はトム・ワイスコフと共同で設計していた。
モリッシュとワイスコフの代表作はスコットランドのロッホローモンドゴルフクラブで、彼らが設計したコースの中では、私はハワイ島のワイコロアビーチリゾート・キングスコースをラウンドしたことがあるが私のお気に入りのリゾートコースである。
そして1997年からはオーハイバレーイン&スパと名称を変更し、1999年には第二次世界大戦後にコースを再設計したときに失われたトーマスJr.が設計した2ホールを16番、17番として復元して現在に至る。
2番ホールは、右ドッグレッグで二度の谷越えがある名物ホールのパー4「The 500 World’s Greatest Golf Holes」のThe Five Hundredに選出されている。
ティーショットは谷越えでフェアウェイが右に傾斜していて、正面奥のドッグレッグしている地点にはバンカー(左正面にある茶色い木の先の方向)があり、飛ばしすぎるとバンカーに入るのでバンカーを避けてボールを適切な場所に運ぶ必要があるホールになっていた。
二打目も谷越えになっていて。木が両側から迫っていて緊張感のあるショットが続く素晴らしいホールだった。
打ち下ろしで多くのバンカーが印象的なパー3の16番ホールは、ロサンゼルスマガジンで Best 18 Holes in the Westの1つに選ばれている。
戦略的で頭を使うレイアウトでメモラビリティに富むホールが多く、楽しくラウンドできた。
その他ラウンドしたカリフォルニアのコース
この旅では、オーハイバレーの後は、ペリカンヒル、スパイグラスヒル、デルモンテ、ランチョカナダをラウンドした。
ニューポートビーチの風光明媚なリゾートコース
オレンジカウンティのニューポートビーチの南側にあるペリカンヒルゴルフクラブ 。
ニューポートビーチは高級住宅街でハリウッドスターが住んでいるエリアで、スコッティ・キャメロンもこの辺りに住んでいて、パターのニューポートはこの地名から名付けられたのだと思う。
ペリカンヒルGCはオーシャンノースとオーシャンサウスの合計36ホールあり、ノースが高台に、サウスは海岸線沿いにあり、風光明媚な高級リゾートコースとして有名。
1991年に開場。当時はゴルフコースだけだったが、宿泊施設なども併設したリゾートコースにするために、2005年にいったん閉鎖をし、2008年11月にコースの改造も行い再オープンした。
設計はどちらも1990年代に一世を風靡したトム・ファジオ。
オーシャンノースコースの17番ホールは、「The 500 World’s Greatest Golf Holes」のThe Five Hundredに選出されている。
オーシャンサウスコースも7カ月後にラウンドしたので、ここで紹介しておく。
オーシャンサウスはオーシャンノースに比べて距離が短いが、ノースより海岸線に近いこともあり、ノース以上に海を感じることができた。
ペリカンヒルゴルフクラブはノース、サウスともに、戦略的で景観が素晴らしい名コースだった。
パインバレーとオーガスタをイメージした難コース
ロサンゼルスでの2ラウンドを終えてモントレーを目指して北上。
前回、ペブルビーチゴルフリゾートを訪れた時はペブルビーチとスパニッシュベイをラウンドしたが、リゾート内にはあと2コースあるので、ラウンドしに訪れた。
まずは、スパイグラスヒルゴルフコースをラウンド。
ペブルビーチGL、スパニッシュベイも難コースとして有名だが、3つの中ではこのスパイグラスヒルが一番、難しいと言われている。
1966年開場で、ロバート・トレント・ジョーンズ・シニアが設計。
1番、4番ホールは「The 500 World’s Greatest Golf Holes」のThe Five Hundredに2番ホールはThe One Hundredに選出されている。
1995~2009年まではゴルフマガジンの世界ゴルフ100選にランクインしていた。(最高位は2001年74位)
最初の5ホールがパインバレーゴルフクラブ、そのあとの13ホールがオーガスタナショナルゴルフクラブをイメージして造られた。
アメリカを感じることができる素晴らしいコースだった。
アメリカ西部最古の18ホールのゴルフコース
スパイグラスヒルのゴルフを終えて、まだまだ時間があるのでデルモンテゴルフコースに。
ここデルモンテGCもペブルビーチリゾートが所有しているコース。
格付けでいうとペブルビーチ、スパイグラスヒル、スパニッシュベイと続き、4番手のコース。
これでペブルビーチリゾートの全4コースを制覇した。
開場は1897年。ポロとゴルフを愛していたチャールズ・モードが設計。
ゴルフがカリフォルニアに伝わった時にデルモンテホテルが観光客向けに用意したのが始まり。用地もポロのフィールドに比較的よい場所が使われていたので内地に開発。
デルモンテゴルフコースがアメリカ西部最古のゴルフコースとよく言われているが、実はこのコースが最古ではないのである。
アメリカ西部最古のコースは1893年にヒルズボロというサンフランシスコ国際空港のすぐ南にある高級住宅街のそばに創設されたプライベートクラブのバーリンガムカントリークラブで3ホールのコースから始まった。
デルモンテは開場時は9ホールで、18ホールになったのは1902年。
バーリンガムが18ホールになったのは1912年なので、デルモンテはアメリカ西部最古の18ホールコースである。
デルモンテゴルフコースは平坦でペブルビーチリゾートの他のコースに比べると簡単なコースだが、アメリカのゴルフの歴史を感じるためには一度ラウンドしておいても損はしないと思う。
カーメルの山の手にあるカジュアルなパブリックコース
今回のカリフォルニアゴルフ旅の最後のラウンドは、モントレーの南にある高級住宅地のカーメルの山の手にあるランチョカナダゴルフコース。
開場は1970年。
ウエストコース、イーストコースの36ホールあり、イーストコースを11時過ぎにティーオフする予定。
ロバート・ディーン・パットマンが設計。
パットマンはカリフォルニア州を中心にコース設計の実績があり、スペインのトップ10コースにランクインするラ・マンガクラブなども設計している。
昨年の10月にもう一方のウエストコースをラウンド中に予約で一杯だったペブルビーチから「当日の空きが出たのでラウンドできる」と連絡があり、4番ホールをホールアウトした時点でペブルビーチに移動したのでウエストコースは最後までラウンドできてなかった。せっかくなのでウエストコースを朝イチにトップスタートして1日2ラウンドした。
ウエストコースはイーストコースに比べて距離がありタフと紹介されていたが、イーストに比べてというだけでどちらのコースも全体的にみて距離の短いコースだった。
カーメル川を越えるショットがいくつかのホールであり、気軽に回れる格安パブリックコースとしては、十分に楽しめた。(※残念ながら2016年に閉鎖された。)
17マイルドライブ(サイプレスポイントクラブとローンサイプレス)
今回の旅の最後の夕食の前にモントレー半島の17マイルドライブと呼ばれている海岸線をドライブすることにした。
17マイルドライブはモントレーとカーメルの町の海沿いのドライブロードで、有料だが住民とゴルフのプレイヤーは無料で通行できる。いくつか料金所があるが、北側のパシフィックグローブゲートから入ることにした。
まずは左手に前回ラウンドしたスパニッシュベイが見えてくる。続いて右折すると海が見えてくる。
ここからはしばらく海とゴルフ場に挟まれた絶景でゴルファーにとっては夢のような道が続く。
スパニッシュベイを過ぎるとプライベートコースのモントレーペニンシュラカントリークラブが現れる。こちらのゴルフコースも全米ゴルフ100選にランクインしている。
続いて今回ラウンドしたスパイグラスヒルを通過して海沿いの駐車場に車を停めた。
駐車場に停めた理由はアメリカのゴルフマガジンが発表する世界ゴルフ100選で長年、世界2位にランキングされているサイプレスポイントクラブを見るためだった。
メンバーは現在は230名ほどでメンバー同伴でなくてはラウンドできないオーガスタナショナルGCよりラウンドするのが難しいといわれている名門コース。
そして設計はオーガスタナショナルと同じくアリスター・マッケンジー。開場は1928年。
ボビー・ジョーンズは開場して間もないサイプレスポイントをラウンドし、コースに感銘してマッケンジーにオーガスタナショナルの共同設計を依頼したのだ。
いつかラウンドしたいなと思う。
そして車を再び走らせて、ペブルビーチのシンボルマークのローンサイプレスを鑑賞。
岩場にポツンと生えているローンサイプレスは夕暮れ時が似合う。
ドライブを終えて夕食を食べに行こうと思った時に、ペブルビーチGLの目の前にピーターヘイゴルフコース(現在はザ・ヘイというコース名になっている)というパー3コースが目に入った。
1957年に造られてこのパー3コースもペブルビーチリゾートが管理しているようだ。
設計はピーター・ヘイ、ジャック・ネビル、ロバート・マクルア。
せっかくなのでラウンドすることにした。ペブルビーチが管理してるだけあってグリーンのコンディションは最高だった。
日没のため、途中でラウンドを終えたが、最後の最後までゴルフを楽しんだ。
ジョージ・C・トーマスJr.の卓越した才能
2011年8月にも三度目のカリフォルニアへのゴルフ旅に出かけた。
ジョージ・C・トーマスJr.が設計したロサンゼルスカントリークラブ、ベルエアカントリークラブをラウンドできるというお誘いをアメリカに住む友人からいただいたのだ。
トーマスJr.設計のコースはリビエラ、オーハイバレーとラウンドしてきてすっかり彼のコースの虜になっていた。
ロサンゼルスCCもベルエアCCもアメリカのゴルフマガジンが発表している全米ゴルフ100選にランクインしている素晴らしいコースである。更にロサンゼルスCCは世界ゴルフ100選に39位(2011年)にもランクインしている。
そんなこともあり、喜んでチケットとホテルを確保。
ロサンゼルスCCは1897年に設立された歴史ある名門コースで、コースの移転を何度か行い、現在の場所に落ち着いた。ノースコースとサウスコースの36ホールあり、2010年にノースコースをギル・ハンスがリデザインを行った。リデザインのテーマはトーマスJr.が1921年に既存コースを改造したした時のトーマスJr.オリジナルの設計に戻すことだったそうだ。このリデザインにより、コースが再評価されてランクアップしたようだ。
ベルエアCCは1927年に開場でシグネチャーホールは10番ホールの150ヤードの谷越えのパー3だが、このホールは当初計画されていたホールではなかった。予定されていた土地をUCLAが購入してしまい、計画の変更を余儀なくされたらしく、10番ホールの設計をイチから考え直す必要があり困っていた。当時、トーマスJr.はペブルビーチの設計で実績を上げたジャック・ネビルも加えてベルエアの設計を進めていたのだが、ふと谷の反対側の土地からティーショットさせてはどうかと思いつき、ネビルにショットをさせたところ成功し、トーマスJr.も同じように成功したことで10番ホールが生まれたという逸話がある。
ジョージ・C・トーマスJr.についてもう少し詳しく調べてみた。
ジョージ・C・トーマスJr.は1873年にペンシルバニア州フィラデルフィアの裕福な家庭で生まれた。
彼の父は投資銀行のパートナーで資産家であり、土地をたくさん所有していた。その土地を使い、トーマスJr.は10代の頃からゴルフコースの設計を始めた。そして1915年に開場したフィラデルフィアのサニーブルックGCの創設メンバーでもあり、設計をドナルド・ロスが担当した時に、見学してコース設計の見識を深めていった。
そんな中、世界No.1のパインバレーGCの創設者のジョージ・クランプやメリオンGCを設計したヒュー・ウィルソン、ウイングドフットGCを設計したA・W・ティリングハースト、シネコックヒルズGCを設計したウィリアム・フリンなどと交流があり、彼らはフィラデルフィア派というゴルフコース設計のグループを作り、意見交換を積極的に行っていた。
第一次世界大戦では空軍のパイロットとして活躍し、終戦後は大戦時の階級の大尉(キャプテン)からキャプテン・トーマスという愛称でも親しまれていた。
彼が卓越していたのは、ゴルフコース設計の傍ら、バラの育成とイングリッシュセッターのブリーダーとしてもその業界に名を残していることなのである。何より、ゴルフコースの設計もバラの育成も無報酬で行っていたという事実に驚いた。
1919年にカリフォルニアのビバリー・ヒルズに移住してゴルフコース設計を本格的に開始した。
ビバリー・ヒルズに移住後は、カリフォルニアで活躍していた若いウィリアム・パーク・ベルを助手にしてゴルフコースを設計し、この後もパートナーとして一緒にコースを造り続けた。
トーマスJr.は1932年に59歳で亡くなるのだが、彼の死後は助手のベルが後を継いだ。
ウイリアム・パーク・ベルの息子のウィリアム・フランシス・ベル設計のコースはハワイのコースで何コースかラウンドしたことがあったのだが、ここで繋がったのは驚いた。
そしてウィリアム・P・ベルの事も調べていてウィリアム・ベル・ソサエティのページを見ていたらトーマスJr.とベルが一緒に写っている写真が掲載されていた。
真ん中がトーマスJr.で左がベルである。そして右の男性はなんとアリスター・マッケンジーなのである。トーマスJr.はフィラデルフィア派の有名設計家と繋がっているだけでなくマッケンジーとも繋がっていたのである。
設計家について調べてみると意外な繋がりを発見できて、ますますコース設計家と歴史について興味を持つようになった。
そして、トーマスJr.が1927年に出版した「Golf Architecture in America: Its Strategy and Construction」というゴルフコースの設計に関する本で彼は以下のように語っている。
When you play a course and remember each hole, it has individuality and change. If your mind cannot recall the exact sequence of the holes, that course lacks the great assets of originality and diversity
Golf Architecture in America: Its Strategy and Construction
訳すと、
「あなたがコースをプレイして各ホールを覚えている時、そのコースは個性と変化がある。もしあなたがホールの順序を正確に思い出せないなら、そのコースはオリジナリティと多様性という大事な点が欠落している。」
という意味なのだが、これを読んで、なぜ私が彼のコースを気に入ったのかが良く理解できた。
私は記憶に残るレイアウトのコース(メモラビリティが高いコース)が大好きなのだが、彼が大事にしているポイントが同じだったので、なるほどなと思った。
そんなトーマスJr.について予習・復習がばっちりという状態で、あとはロサンゼルスに飛んで行くだけ。というときに友人から連絡があり、同伴してくれるメンバーの方のお父様が危篤になられてラウンドする予定だった期間中、ロサンゼルスを離れる必要がでたので日付を変更してほしいという連絡が。
残念だがこればっかりは仕方ない。また機会はあるはずなので、代わりにカリフォルニアのリゾートコースをラウンドする事にした。
全ホールから太平洋が見える絶景のコース
カリフォルニアゴルフの初日は、ペリカンヒル・ゴルフクラブ オーシャンサウスを楽しんだ。
ペリカンヒル・オーシャンサウスはオーシャンノースの紹介と一緒に上で説明しているのでそちらをご覧いただきたい。
2日めは、トランプナショナルゴルフクラブでのラウンド。
ロサンゼルスから車で南に約30分。10億円以上の豪邸が建ち並ぶ高級住宅地のパロスベルデス。
この太平洋が見渡せる地に、トランプナショナルゴルフクラブはある。
元々、このコースは、オーシャントレイルズゴルフコースというピート・ダイ設計のコースで1999年7月にオープンする予定だった。
開場直前に不運にも18番ホールと隣接する2ホールが土砂崩れにあい、オープンが延期され、3ホールは修復をしながら15ホールのゴルフコースとして1999年11月に開場された。
そして2002年にドナルド・トランプがコースを買収して、崩落のあった3ホールの再建と全ホールのリノベーションを行い、2005年9月にはLPGAのオフィスデポ選手権を開催して箔をつけた後に2006年1月にトランプナショナルゴルフクラブとして正式にオープンしたという歴史がある。
リノベーションに6100万ドルもかけたようで、オーシャントレイルズ時代からの総工費は2億6400万ドルもかかっていて世界一贅沢なゴルフコースとも言われている。
1番と17番ホールのグリーン奥には人工の滝を作り、ビジュアル的にも強化してバンカーの数も増やして難易度も増したコースは南カリフォルニアで一番高額なゴルフコースになった。
ラウンドした感想は高級だけど少し下品な印象を受けた。
コース設計もフルバックのブラックティーは闇雲に距離を伸ばしただけであったり、クラブハウスも何となく落ち着かない。
ペリカンヒルゴルフクラブは同じ高級コースでも上品なコース。こちらは成金っぽい下品なイメージのコースという印象を受けた。
トランプはあえてそういうノリとキャラで自分を売っているので、意図した通りなのかもしれない。
そんなトランプナショナルゴルフクラブだが、景観は今までラウンドしたゴルフコースの中ではトップクラスだった。何といっても全ホールから海が見渡せるコースはラウンドしていて気持ち良い。
何度も行きたいと思うコースではないが一度はラウンドしておいてもよいとは思う。
ダナポイントのリゾートコース
カリフォルニアゴルフ3日目はダナポイントにあるリゾートコースのモナークビーチゴルフリンクス。
ダナポイントはロサンゼルスとサンディエゴの中間に位置し、人口的に作られた港があり、世界でも景観の良い湾として知られている。
1800年代の探検家、リチャード・ヘンリー・ダナは1834年8月にピルグリム号でボストンを出発し航海中にこの地を訪れ、「カリフォルニアでもっともロマンティックな場所」と称賛したことから、ダナ・ポイントと呼ばれるようになった。
その美しい海岸沿いのモナークビーチにあるモナークビーチゴルフリンクスは、ロバート・トレント・ジョーンズJr.の設計のコース。開場は1983年。
敷地内にはリゾートホテルのセントレジス・モナークビーチがあり、コースの横にはリッツカールトンもあった。
リゾートのグレードとしてはペリカンヒルのほうが私はよく感じたが、モナークビーチは気楽にリゾート気分を味わうにはちょうどいい感じの雰囲気で、風が心地よいコースだった。
ペイン・スチュワート設計のコース
三度目のカリフォルニアゴルフの四日目(最終日)のラウンドはコヨーテヒルズゴルフコース。
設計はカル・オルソンとペイン・スチュワートが担当。
ご存じペイン・スチュワートはメジャー3勝、PGA11勝、海外7勝という素晴らしい成績を上げ、3度目のメジャーを制した全米オープンの4ヶ月後に飛行機事故により42歳の若さで生涯を終えたプロゴルファーだ。
コヨーテヒルズGCの開場が1996年。ペインが亡くなったのが1999年。彼が設計した唯一のコースである。
距離は短いが打ちおろし、打ち上げなどレイアウトが豊富でクリークなども巧みに配置されていてターゲット重視のコースで楽しめた。
今回のカリフォルニアゴルフ旅は、ジョージ・C・トーマスJr.設計のコースをラウンドする予定が直前で変更になり、ラウンドできなくて残念だったが、アメリカ西海岸の開放的なリゾートコースを最高の天気でラウンドでき、気持ち良いゴルフができた。
何より、トーマスJr.の事を更に深く調べた事でゴルフコース黄金期の名匠同士の繋がりを知ることができたのは収穫だった。
アリスター・マッケンジーを感じる旅
最後に、2013年12月に4度目のカリフォルニア州にゴルフ旅に行った時の話をまとめる。
この旅までに、アメリカ中西部、南部にもゴルフに行き、現代の名匠ピート・ダイ、R・T・ジョーンズ・シニア、R・T・ジョーンズJr.、リース・ジョーンズ、トム・ファジオなどのコースだけでなく、ゴルフコース黄金期の名匠H・S・コルト、C・H・アリソン、セス・レイナー、ドナルド・ロス、ジョージ・C・トーマスJr.などのコースも経験して、以前よりコースに対する知見を広げていた。
特に8カ月前にマスターズの観戦でアリスター・マッケンジーが設計したオーガスタナショナルGCのコースを見学し、コースの素晴らしさを体感して、マッケンジーが設計したコースをラウンドしてみたいと思うようになった。
それはこの旅で、実現することになる。
全米オープンが開催されたサンフランシスコのオリンピッククラブ・レイクコース、サンタクルーズに移動してマッケンジー設計のパサティエンポゴルフクラブ、そしてサンディエゴに移動してトーリーパインズサウスコースなどをラウンドしてきた。サンディエゴの後は国境を越えてメキシコのティファナで食べ歩きにも行き、帰りに国境でトラブルが発生した顛末もまとめてみた。
マッケンジーが絶賛した地形のコース
三年ぶりにサンフランシスコのオリンピッククラブを再訪した。
初めてのアメリカ本土へのゴルフ旅の最初のラウンドが2年後に全米オープンが開催される予定だったオリンピッククラブ。今から考えると、とても贅沢で恵まれていたと思う。
この時は全米オープン開催コースではないほうのオーシャンコースをラウンドだったが、オーシャンコースも素晴らしいコースだった。
プロショップで、全米オープンのロゴが入ったグッズなどを喜んで購入したのを覚えている。
そして今回は全米オープンが開催されたレイクコースをラウンドする。
ラウンド前にクラブハウス内を案内していただいた。
オリンピッククラブの歴史を簡単にまとめると、1860年にサンフランシスコ市内に設立されたアメリカでは最も古い歴史あるアスレチッククラブで、1918年に経営的に苦しんでいたレイクサイドゴルフクラブを買収して、ゴルフコースも所有するようになった。
1924年にウィリー・ワトソンを招聘してレイクコースとオーシャンコースの2つのコースに造り変えた。
オーシャンコースは開場後、地滑りにより、いくつかのホールが太平洋に沈んでしまったので1927年にサム・ホワイティングが改造・再建をした。
更にレイクコースは1955年の全米オープン開催に向けてロバート・トレント・ジョーンズ・シニアの手によっても改造されたという歴史がある。
そんなクラブの歴史がわかる各時代のコースレイアウト図がクラブハウスの中に飾られていた。
レイクコースは2013年に米国ゴルフマガジン社が発表した世界ゴルフ100選の57位にランクインされている。
3番、7番、18番ホールは、「The 500 World’s Greatest Golf Holes」のThe Five Hundredに選ばれている。特に18番が素晴らしいなと感じた。
オリンピッククラブは太平洋とマーセッド湖に挟まれた素晴らしい地形にあり、1920年代にカリフォルニアを訪れたアリスター・マッケンジーが「オリンピッククラブの土地は、ペブルビーチがあるモントレー半島のような壮大さはないが、私がアメリカで見てきたゴルフコースの中で、もっとも洗練された地形だ」と絶賛したことでも有名なコースだ。
オリンピッククラブレイクコースは18ホール中、フェアウェイバンカーが1つしかないのだが、クラブハウスからマーセッド湖に自然に傾斜している地形と木のハザードが有効に機能していて戦略性の高い、そして楽しいコースに仕上がっていた。
アリスター・マッケンジーが余生を過ごしたコース
この旅の第二ラウンドは、カリフォルニア州のサンタクルーズにあるパサティエンポゴルフクラブ。
米国ゴルフマガジン社が2013年に発表した全米ゴルフ100選で53位にランクインしていて、16番パー4が、「The 500 World’s Greatest Golf Holes」のThe One Hundredに、2番パー4がThe Five Hundredに選出されている。
設計はサイプレスポイントクラブやオーガスタナショナルゴルフクラブを設計したアリスター・マッケンジー。
オーガスタナショナルを見学して、マッケンジーのコースをラウンドしてみたいと思うようになり、いよいよ実現する。
パサティエンポ誕生にはマッケンジー以外にもう一人の人物が重要な役割を果たした。マリオン・ホリンズという女性である。
彼女は1921年に全米女子アマチュアゴルフ選手権のチャンピオンでプライベートクラブのサイプレスポイントクラブの開発責任者であり、マッケンジーに設計を依頼して1928年に開場させた人物。
そして、ホリンズはプライベートクラブの次は誰にでもラウンドできるコースを造るために、サイプレスポイントがあるモントレー湾の北の対岸のサンタクルーズに570エーカーの土地を購入し、その地をパサティエンポ(スペイン語で気晴らしや娯楽という意味)と名付けた。彼女はサイプレスポイントでコンビを組んだマッケンジーに再度、設計を依頼し1929年に開場させたのだ。
マッケンジーもホリンズも、このパサティエンポをこよなく愛してコース内に自宅を構え、マッケンジーは6番ホールのフェアウェイ途中の左側にある自宅で余生を過ごし、1934年に63歳で生涯を終えた。
マッケンジーは彼の遺灰をコース内に撒いてもらったというぐらい愛着のあったコースだったようだ。
谷や窪地を有効に活用した素晴らしいコースで、マッケンジーが余生を過ごすコースに選んだのも理解できた。また訪れたいと思う。
サンタバーバラの隣町にあるマッケンジー設計のコース
今日はサンタバーバラの隣町のモンテシートにあるバレークラブ・オブ・モンテシートをラウンドする予定だった。
「予定だった」と書いてあるのは今回の旅でこのクラブのブッキングを友人にお願いしていたのだが、間違って隣のモンテシートカントリークラブの予約になってしまっていたという笑い話だった。
バレークラブ・オブ・モンテシートは昨日ラウンドしたパサティエンポゴルフクラブを設計したアリスター・マッケンジー設計で1929年に開場。
米国ゴルフマガジン社が2013年に発表した全米ゴルフ100選で51位にランクインしていて、かつては世界ゴルフ100選にもランクイン(最高位は2003年の85位)していた。
バレークラブ・オブ・モンテシートに到着。本日、ブッキングしていることを伝えると、「ブッキングされてません」と言われて友人に調べてもらうと、どうやら間違ったことが発覚。
ということで残念ながら今回はラウンドできず。
またモンテシートに来いよ、ということなのだと解釈しておくことにした。
マッケンジーとボビー・ジョーンズに影響を与えた知られざる設計家
サンタバーバラの東隣の町、モンテシートにあるバレークラブ・オブ・モンテシートをラウンドする予定が、友人が間違えて同じ町のモンテシートカントリークラブを予約してしまったという笑い話は先ほど話したが、この間違いが実はとても価値のある間違いであることになったのだ。
モンテシートカントリークラブは1922年に開場。
設計はマックス・ハウエル・ベーア。その後、ずいぶんと後にジャック・ニクラスが改造したようだ。(※そして2019年にも再び、約1億2000万ドルかけて二クラスが大規模な改造を行い、現在はモンテシートクラブという名前に変っている。)
マックス・ベーアはニューヨーク生まれでイェール大学ゴルフコースデザイン科の最初の卒業生。
スコットランド人の彼の祖父と父はニューヨーク州ヨンカースに1888年に設立したセントアンドリュースゴルフクラブ(全米ゴルフ協会を立ち上げた5つの老舗クラブの1つ)のファウンダーだったようで、生粋のゴルフ家系に生まれた。
ゴルフの腕前もスクラッチプレイヤーで、1914年から1918年にかけてゴルフ・イラストレイテッド・マガジン(1914年創刊)の初代編集長として活躍。
その後、妻の死をきっかけに34歳でカリフォルニアに引っ越して、ゴルフコースの設計の仕事を開始した。
彼が設計した主なコースを調べてみると
1922年 ハシエンダゴルフクラブ、オークモントカントリークラブ(ペンシルバニア州の同名コースとは別)1924年レイクサイドゴルフクラブ(サンフランシスコにあったオリンピッククラブが買収したコースとは別)
1928年モンテベッロゴルフクラブ
1929年ランチョサンタフェゴルフクラブ
などがあり、大恐慌により、ゴルフコースの設計の事業からは手を引き、ランチョサンタフェが最後の作品になった。
このランチョサンタフェも最初はアリスター・マッケンジーに設計の依頼がいったのだが、マッケンジーはサイプレスポイントの設計で忙しかったので断り、その代わりにマックス・ベーアを推薦した。
ベーアは1926年にはオリンピッククラブレイクコースの改造のコンサルティングも行い、カリフォルニアで一目置かれた設計家だった。
更に驚くべきことはベーアの設計理論が、マッケンジーとボビー・ジョーンズに影響を与えていたということだ。
ベーアは、ラフをコースに作ることを好まずに自然の地形とバンカーで、グリーンをガードすることを好んで設計していた。
オーガスタナショナルにラフがないのはベーアに影響されたのだと思う。その理由の1つにボビー・ジョーンズが出演した1931年のショートフィルム「How I Play Golf」はベーアが設計したレイクサイドゴルフクラブで撮影されたのだ。ジョーンズがレイクサイドを気に入っていたのがわかる。
そして、マッケンジーはレイクサイドGCについて次のように評価している。
「レイクサイドはモントレーのコースやオリンピッククラブのような自然の地形のアドバンテージはないが、他のインランドコースと比べても見事に設計されている。一言で言えば、レイクサイドは世界の偉大なゴルフコースの1つである」
偶然かもしれないが、レイクサイドGCもオーガスタナショナルGCも元々は果樹園だったというところにもロマンを感じる。
モンテシートCCは高台の斜面に海に平行して造られているホールが多く、常に海に向かってフェアウェイやグリーンが傾斜していて、その傾斜もかなりの勾配だったのでボールのコントロールが大変だった。
予約間違いがなければ、モンテシートCCを設計したマックス・ベーアを知ることはなかったという意味では価値のある間違いだった。
ラ・ホーヤビーチ沿いにある全米オープン開催のコース
今回の旅の最後のラウンドは、カリフォルニア州のサンディエゴにあるトーリーパインズゴルフコース・サウスコース。
トーリーパインズは、サンディエゴで一番美しいビーチと言われているラ・ホーヤビーチ沿いにあるサンディエゴ市営の公営コース。
ノースコースと、PGAのファーマーズインシュランスオープンの試合会場で、2008年の全米オープンの会場にもなったサウスコースの36ホールある。
サウスコースは米国ゴルフマガジン社が2013年に発表した全米ゴルフ100選で98位にランクインしている。
開場は1957年。ウィリアム・パーク・ベルとウィリアム・フランシス・ベルの親子が設計。
12番ホールは、「The 500 World’s Greatest Golf Holes」のThe Five Hundredに選出されている。
父親のウィリアム・P・ベルはジョージ・C・トーマスJr.の章で伝えたが、トーマスJr.の助手として勤め、彼の死後はトーマスJr.の跡を継いだ人物。
また昨日、ラウンドしたモンテシートCCを設計したマックス・ベーアが設計したハシエンダGCもベルが協力していた。
第二次世界大戦中は米国陸軍の技術者として務め、戦後は彼の息子のウィリアム・F・ベルに設計の仕事に手伝わせた。
父親のウィリアム・P・ベルは1953年に67歳で亡くなった。トーリーパインズは開場が1957年なのでウィリアム・P・ベルの仕事を息子のウィリアム・F・ベルが引き継ぎ、完成させたコースである。
設計家について調べると設計家同士の横の繋がりだけでなく、師匠・弟子という縦の繋がりもあり、設計理論が受け継がれていくロマンを感じた旅になった。
メキシコでのトラブルも旅の良い思い出
サンディエゴのトーリーパインズでのラウンドを終えたあと、昼食でタコスを食べに隣の国のメキシコのティファナに行くことにした。
サンディエゴはメキシコのバハ・カリフォルニア州と面していて、歩いて国境を渡れる。
国境を越えてすぐにバハ・カリフォルニア州最大の都市ティファナがある。
メキシコのティファナに行くのは約15年ぶり。昔、仕事でロサンゼルスに来ていて日帰りでアムトラックと路面電車のサンディエゴトロリーで国境まで行き、そこから徒歩でティファナに渡ったのが懐かしい。
アメリカからメキシコに入国するのはパスポートも必要なく、ノーチェックで無人の回転ゲートをくぐるだけ。一方、帰りのメキシコからアメリカに入国するのはメキシコからの不法入国者や麻薬などの流入を防ぐために厳重にセキュリティチェックが行われて、徒歩、車のどちらも大混雑する世界で最も人の行き来がある国境である。
15年前の帰りの国境も大混雑していてサンディエゴからロサンゼルスに戻るアムトラックの最終電車に間に合うかどうかのギリギリの事態に陥り、最悪の場合、乗り過ごしてサンディエゴで当日の宿を探さないといけないいう状態だった。今ならスマホで簡単に宿を調べたりすることができるが、当時はそういうわけにもいかない時代で英語もしゃべれないのでヒヤヒヤしたのを覚えている。
車を国境そばの駐車場に停めて、そこから歩いて国境に。駐車場の近くから国境ゾーンに続く歩道橋を歩く。
15年ぶりにやってきた回転ゲートの国境。アメリカから出るのは自由。
もちろん戻るときにパスポートが必要で忘れるとアメリカに再入国できないのでもう一度、パスポートを確認してから回転ゲートに。
ゲートをくぐるとそこはメキシコ。遠くに見えるアーチ状の建造物はティファナのランドマークのティファナアーチ。
今からそのティファナアーチに向けて歩いていく。
ティファナの名もなきタコス屋さん
完全に言葉の通じない国で美味しい物を食べるには、やはり地元の人が集まっているお店を見つけてそこで食べるのが一番。
かなりの人だかりができているタコスの屋台を発見。次から次へと客がやってくるのでこの店は美味しいに違いない。
みんなタコスとスープを頼んでるので私も2種類のタコスとスープを身振り手振りでオーダー。
シーフードスープは、中にも具がゴロゴロ入っていて具と具の隙間にスープが入っている感じのスープ。これがやけどしそうなぐらいアツアツで美味しかった。
食べたタコスは2種類で豚肉を蒸して割いたカルニータのタコスとバハ・カルフォルニアでは人気の白身魚のフライのタコス。
マヨネーズ風味のサルサソースがサッパリしていて、どちらも最高に美味しかった。
シーザーサラダ発祥の店
ティファナでもう一軒だけ食べ歩きしたいお店があった。
名もなき屋台のタコスを食べた後は、再びティファナのメインストリートのレボルシオン通りに戻ってきた。次の目的地はシーザーサラダ発祥の店、シーザーズ。
シーザーサラダの発祥がメキシコだというのは意外だが、1924年にこのお店のイタリア系移民のオーナーシェフだったシーザー・カルディーニが作ったのが最初らしい。
当時アメリカでは禁酒法の時代で週末にお酒を楽しむために国境を越えて、ここティファナにやってきていた。そこでカルディーニが提供したシーザーサラダが好評でアメリカに伝わり、その後、世界中に広まったということらしい。
Gambas Criollasというソテーした海老をウスターソース、トマト、白ワイン、バターで煮込んだものも注文してみた。
シーザーサラダはテーブルの横でサラダを作ってくれた。
濃厚なドレッシングだが爽やかさもあり、とても美味しくいただけた。
そろそろアメリカに戻ることにする。
メキシコ国境で死亡事故があり国境閉鎖のトラブルに巻き込まれる
メキシコのティファナで目的のタコスとシーザーサラダの食べ歩きを終えたのでアメリカに戻ることに。
メキシコからアメリカに陸路で戻るときはセキュリティが厳しく、しかも大勢の人数が行き来するので徒歩でも車でも2時間、場合によっては3時間ほど行列を待つことも覚悟しておかないといけない。
そんなこともあり、早めにアメリカに戻ることに。今日は土曜日なので平日より混んでいる。2時間は覚悟しないといけないなと思っていたら、突然の雨。
雨の中、屋根のないところに長時間、並ぶのは大変だなぁと思っていたら、乗り合いバスに乗って戻れる白タクならぬ、白バスのようなサービスがあるのでそのバスにお金を払って乗り込んだ。
少し進んだところで車が全く動かなくなり、どうしたのかなと思ったら、スペイン語で何やら運転手が説明を我々、乗客にしている。よくわからないのでどうしようかなと思ってたらスペイン語も英語もわかる人が英語で通訳をして他の乗客に状況を教えてくれた。
国境付近で死亡事故・事件?が発生して、ティファナの国境は閉鎖されたとのこと。その代わりに一番近い別の国境までバスは行くので降りる人は降りて、そのまま乗る人は乗ってほしいというような内容だった。
うーん、まずい。帰国日がまだ先なら予定を変更して、のんびりティファナ滞在や他のメキシコの場所を巡るのもいいのだが、帰国は明日なので本日中に空港に近いロサンゼルスまで戻っておきたいところ。
国境封鎖がいつ解放されるかもわからないので、このままここにいるより、どこかわからない場所だが、そこからアメリカに入国したほうが、今日中にロサンゼルスに戻れる確率は高くなりそうなので、このままバスに乗って知らない街に行くことにした。
iPhoneの電池も残り数%まで減っている。ティファナでは電波が届かない場所が多くてネットの接続に時間がかかりいつも以上に電池が消耗したようだ。
電池に残量があればいろいろと調べることができるのだが、もうiPhoneは使用できないと思ったほうがよさそうだ。
アメリカ側に行けば、何とか気合で、私のなんちゃって英語でやり取りすれば何とかなるだろうと思ったのだが、よく考えてみるとアメリカ側の国境付近の車を停めた地名すらわからない。荷物を持ち歩きながら移動したくなかったのでティファナに持ってきた持ち物はポケットに入る小銭入れサイズの財布とパスポートとiPhoneのみ。ガイドブックがあれば地名を調べられるし、指さしながら現地の人達と会話できるけどそれもできない。
これはまずいな。。
しかしこういうピンチなときほどワクワクしてしまう性格なのである。
まあ、最悪戻れなかったらメキシコをしばらく楽しんでもいいかと思いながら、バスの車窓から見えるメキシコの知らない街の風景を眺めること20分ほどでメキシコの知らない街に到着した。
他の乗客で英語がしゃべれそうな人に、「この後、どうしたらいいの?」と聞くと、「このまま、まっすぐ歩いていくと国境があるのでそこで入国して入国したらタクシーかバスで目的地に移動したらいいみたい。」と教えてくれた。
とりあえず人の流れにそって歩いてアメリカに入国するための列に並んでみた。
ここがどこかもわからない、戻る場所の地名もわからない、iPhoneの電池の残量も少ない。。。 ないない尽くしだ。
電池の消費が勿体ないので電源を切っておいたiPhoneを立ち上げてまずはここがどこかを調べてみた。
どうやらMesa de Otay(メサ・デ・オタイ)という場所らしいことがわかった。ティファナの国境から直線で約10kmの場所のようだ。
続いて車を駐車したアメリカ側の地名をグーグルマップを調べると、ティファナとつながっているアメリカ側の地名はSan Ysidro(サンイーサイドロ)という地名であることがわかった。
もう電池が切れそうだから、サンイーサイドロ、サンイーサイドロ、サンイーサイドロと地名を忘れないように何度も頭の中で復唱。
なんとかサンイーサイドロまで戻れたとして、そこから駐車場にはどうやって戻ればいいのだろう?
そんなことを考え、入国の行列に並びながら少しずつ進み、国境のゲートが目の前に。
最後の電池を使って記念撮影。メキシコ側から見たアメリカ。ちょうど電池が0%に。
この回転ゲートをくぐるとアメリカだ。そして入国審査を受けて何とかアメリカに帰還。
アメリカ側も知らない街だが、やはりこちらのほうが英語が通じるので安心する。
しかし、この後が大変だった。街中にタクシーの台数が少なくてなかなかつかまらない。アメリカの田舎だから流しのタクシーも見当たらない。
少し歩いて周辺の様子を調べていると、奇跡的に私の前にタクシーが停まり、乗っていた人が下車して入れ替わりで、すぐに乗車できた。ラッキーだった。
運転手に片言の英語で事情を説明。
「とにかくサンイーサイドロに行ってほしい。国境近くのどこかの駐車場に車を停めたので、しらみ潰しで駐車場を探してほしい。」などなど、なんちゃって英語でお願い。
何とか理解してくれた運転手に感謝。
乗車して15分ほどでサンイーサイドロに到着。そして駐車場もすぐに見つかったのもラッキーだった。
レンタカーの中に用意してあったシガーライターからiPhoneを充電するケーブルでiPhoneを充電。iPhoneがあればナビも使えるしロサンゼルスまで戻れる。
そんな最後は少しドタバタしたティファナ訪問だった。
そしてティファナにはClub Campestre de Tijuana(Tijuana Country Club・ティファナカントリークラブ)というアリスター・マッケンジー設計のコース(オリジナルは1927年にウィリアム・P・ベルが設計し、その後マッケンジーが改造)があることを帰国後に知った。
次回はこのゴルフ場とタコスのためにやってきたいと思う。
旅を終えて
カリフォルニアへの2回目、3回目、4回目のゴルフ旅をまとめて紹介した。
最初はジョージ・C・トーマスJr.に興味を持ち、トーマスJr.設計コースをラウンドするのがきっかけだったが、その後、マスターズの観戦でアリスター・マッケンジーにも興味が湧き、マッケンジー設計のコースをラウンド。
するとトーマスJr.とマッケンジー、そしてトーマスJr.の助手ウィリアム・P・ベルも関係が縦にも横にも繋がっていたことを知ることができた。
更に予約間違いでラウンドすることになったコースがマックス・ベーアというあまり知られていない設計家のコースだったのだが、マッケンジーとボビー・ジョーンズがオーガスタナショナルを造るときにベーアの設計理論に影響を与えられていたことがわかり、ゴルフコース設計家同士の繋がりを調べ、その当時に思いを馳せる楽しさを知った。